秀吉が征夷大将軍になっていたら歴史は変わっていたか?

      2023/12/26

備忘録なのでスルーしてください。

徳川家康が「征夷大将軍」になったのは、どうしてか。秀吉の「関白」はなぜダメなのか

秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく、関白を選んだか

大阪(豊臣)幕府はなぜ生まれなかったのでしょうか?

様々な説からまとめると

源氏ではないから征夷大将軍になれたなかったというのは俗説である(実際それより難しそうな関白になっている)

征夷大将軍よりも上を目指していた(関白のほうが官位が上)

のようですね。
とはいえ、私の関心ごとはもし秀吉が征夷大将軍となり幕府を開いていたら関ケ原の戦いのような事が起こったのか、或いは起こったとして徳川方が勝利したとして豊臣政権は消滅したのか?という点です。(幕府を開くという表現が適切かどうかという話はありますがNHK高校講座日本史~源頼朝が幕府を開いたのはなぜ1185年なのか

これも大概が秀吉個人の能力でもっているような政権なので幕府を開いても結果はあまり変わらないのではという意見が多いようです。

ただ、幕府を開くまでと、開いてから後では少々話が変わってくるでしょう。
そもそも徳川幕府だって徳川家康というとんでもない人間がいなくなっても随分と長い事持ちこたえたわけで、言い換えればトップが凡庸であっても中身が変わっても維持し続けることが出来るというのが組織というものの持つ意味であったりもします。
そう考えると秀吉個人の能力で持っている政権であったとしても、今後の政権のビジョンというものをうまいこと提示できれば豊臣幕府としてある程度存続できたのではないかとも思うわけです。
権力者の地位というよりはその権力の基盤、システム自体が世襲できるかどうかというのも結構重要なポイントだと思います。
この点関白は世襲ではないという理由もあげられてはいます。※追記 豊臣秀吉の死後の関白はどうなったのか?に、関白を豊臣家で世襲させるため、甥の秀次に関白をゆずったとありますし、また公家の世界では摂関家は持ち回りなので事実上世襲ですね。

では征夷大将軍という地位は世襲なのか?というと事実上世襲かもしれませんが、世襲であると決められているわけでもないようです。
そういう意味では将軍の権威が失墜して色々とあった室町幕府などの例もありますから、確かに秀吉個人の能力に頼り過ぎている豊臣幕府は早晩瓦解してしまうとみるのも自然な感じもしますが、幕府を開いていれば少なくとも家康は将軍にはなれていないわけですから、武士の棟梁としての権威を背景にして邪魔な存在に因縁をつけて滅ぼすなどの荒業できません。
もっとも、家康の事ですから政権の中枢にはいるはずでから何らかの謀略を画策するでしょう。
こうなってくると、もはや何をやっても家康からは逃れられないという結論になってしまうわけですが(笑)
※追記
一旦幕府が開かれてしまった場合、征夷大将軍は勿論幕府のトップから選ばれるはずで、そうなればやはり幕府を開き、幕府のトップの将軍様を誰にするかということになり、となればそこは世襲ということになりそうです。もっとも世襲とはいっても養子だってあり得るわけで、結局はその組織内での権力闘争に勝ったものがトップになりますから、そう考えるとやはり家康が存命のうちは豊臣幕府ができていたとしても何らかの手段で家康が権力を手中におさめそうですね(笑)

※追記
豊臣秀吉の死後の関白はどうなったのか?
>関白を豊臣家で世襲させるため、甥の秀次に関白をゆずったのですが、事件で秀次が処分されると、秀吉は朝廷に対して秀頼が成人するまで関白職を空位にするように要請します

>秀吉が亡くなると官位を持った大名たちが都から遠ざかったうえに、公家や大名たちの死や隠居が重なり、役職不足になり朝廷運営が立ち行かなくなります。
こうして、朝廷内で最高官位が内大臣・徳川家康と言う事態を招きます。
この状態にメスを入れたのが徳川家康でした。
家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開き、天下人となったと言われてますが、実情は豊臣秀頼が関白に就任するまでのつなぎ政権だと思われていた所がありました

>信長時代に関白だった九条兼孝を復帰させています。兼孝の関白就任は、秀頼の関白をけん制する意図もあったと考えられています

>こうして家康と朝廷は、豊臣秀吉以前の五摂家が関白を持ち回りする旧来のシステムを復活させることに成功

関白というのは朝廷内での話であり、朝廷内での政治の実権を握っていないのであれば当然関白になることもできませんから政治力を実行することもできません。すると豊臣家としては武家の世界で政治力を実行すればいいわけですが、そこには既に徳川家康が幕府を開いているという・・・
徳川家康や前田利家などの5大老というものも言わば豊臣家内部での話と言える。

五大老
>豊臣秀頼成人までの政治運営にあたっては、前記の有力大名5人(既に病没していた小早川隆景を欠く)と石田三成ら豊臣家吏僚による合議制をとることを遺命した。いわゆる「五大老・五奉行」が制度化された
>利家死後に家康は自分以外の大老を帰国させ、兵を率いて大坂城西の丸に入って秀頼を掌中に収め、中央において家康を掣肘する存在がなくなった。前田家は家康に人質を差し出し、残る三家は関ヶ原の戦いで敗れ、改易または大幅減知となり脱落、家康の単独支配体制が確立した

こうやってみると仮に秀吉が征夷大将軍となり、秀頼が2代目征夷大将軍となっても同じだった可能性大ですね(笑)




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