あおり運転に敏感になり過ぎて逆にトラブルになっているのでは問題

   

ようやくすれ違いができるような細い道を車で走っていると急に前を走っていた車がハザードをつけて路肩に停止。
なんだろうと思いつつ追い越して、後方を確認すると当該車両はすぐさま走り出す。
もしかして、煽られてると思って道を譲ったのか?
普段煽られる事が嫌な私はできるだけそう思われないように車間距離はある程度保つようにしているのだが。
そうすると丁度赤信号に停車すると左方に駐車場がありなんの気なしに左の駐車場を見ると、なんと当該車両の運転手がずっとこちらを睨んでいるではないか(笑)
そこで、私はどういうことか問いただそうと思いその駐車場の方へ車を進めると(ま、行く方法も行く方だが(笑))なんとその車両は逃げるように駐車場を回り出す。
しかも駐車場からは出ずに駐車場内を延々とぐるぐる周回している。
あほらしくなって用事を済ませに駐車場を後にしたのだが、恐らく当該車両の運転手は私があおり運転をしていると感じ、抗議の意味あいがあってじっとこちらを見ていたのだろう。
とは言え、よくよく考えてみるとこれがトラブルの元だとすぐに分かる。
もし煽られていると感じたなら単に路肩に止めてやり過ごせばいいだけである。
しかし、それでは怒りの矛先を納めることができなかったのだろう。
しかも、あの程度の運転で煽り運転とみなされるとするとほぼほぼどの車両も煽り運転になってしまうのではないかという車間距離である(時速40キロ程度10m弱程度しかあいていないので車間距離不足と言われればそれまでだが)。
昨今あおり運転が社会問題化し、あおり運転はよくないということが一般化した。結果あおり運転をするような輩は社会的制裁を加えねばならないといういわゆる自粛警察のような、あおり運転自警団のようなものが出来上がっているのだろう。
根底にあるのは正義感のように見えるが実はそうではなく、要するに自分の気に食わないものになんとかして制裁を加えたいがために社会的コンセンサスを利用しているだけに過ぎない。
言わば自分の欲求不満を解消するために他人の粗探しをし、ちょうどいい材料が見つかったくらいのもんである。
従って、このような事をしている人間は中高年以上の年代に多いと推察。
普通にまっとうに精神的に安定している人間からすればこんなことをやるのは、なんと無駄なことをやっているか悲しくなるに違いないが、情緒不安定な自分や社会に不満がある人間にはそれが見えない(私がそうだからよくわかる)。
しかし、冷静になって客観視して自分の行動を振り返るとホントにあほらしくなるものである。
1週間で1200件を検挙!! どこまでがあおり運転なのか?
上記記事にもあるように実はあおり運転を助長するようなあおられ運転をしている人も多い。
こういう人は自分の行動がまさか暴力を呼び込もうとは思ってもいない。
どんなことがあっても暴力は許されないという日本の常識は世界の常識か
根底にあるのはどんなことがあっても暴力は許されない→暴力をふるうやつは気の狂った一部の奴→ほとんど暴力なんか振るわれないというある意味性善説にたっているからであろう。
しかし、普段は大人しい人間でも釣銭の渡し方を注意されただけで相手を重体にするほど豹変してしまう場合だってあるわけである。
従ってそのようなリスクは常に存在すると思って行動することが重要なのである。
駐車場でじっと私を見ていたあの運転手は私が暴力を振るわないと思ったのであろう。結果として暴力をふるうことはなかった。しかし、次はないかもしれないのである。




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