どんなことがあっても暴力は許されないという日本の常識は世界の常識か

   

釣り銭注意され傷害疑い、千葉 客重体、コンビニ店員逮捕

千葉市のコンビニで釣り銭の渡し方を注意されたことに腹を立て、客の男性の頭を床に打ち付けるなどしたとして、千葉東署は26日、傷害の疑いで、千葉市若葉区千城台南、アルバイト店員花沢元容疑者(32)を逮捕した。署によると、客の男性は病院に運ばれ意識不明の重体。

コメントをみると大方予想通りのコメントがならぶ

どんな理由があっても投げ飛ばして頭を床に打ち付けたり顔を殴ったりは異常
もしもこの客がとんでもなくウザいクレーマーだったとしても、70代の年寄りを意識不明にするまでの暴力を振るった行為に対してどんな言い訳しても、正当化できる言い訳なんか無い。
どんな理由をつけても、暴力は暴力であり、しかも、この店員は執拗なまでに相手を痛めつけて、結果、意識不明の重体におちいらせています。この事件を起こした店員に対しては、何ら擁護できる要素はないし、ここで老人の態度について言及しても想像の域を超えないのですから意味がないと思います。

普通に考えれば店員の行動はいきすぎだろう。
しかし、違う目線で考えてみる。自分がもしその客側だったとしたら。
果たして、いちいち釣りの渡し方ぐらいで注意するものなのか?もしも注意するとしたらそれはよっぽどのことがあったときだろう(投げて渡すとか)。
この記事だけだと情報がすくなくてそのあたりは分からない。しかし普通に考えると釣銭を投げて渡す店員などいそうもない。だとするとわざわざ注意するほどでもなかったのかもしれない。
勿論、不快に思うような渡し方をする店員もいる(投げるほどではないがそれに近いとでもいうべきか)。
問題はそんな時である。とても不快に思うがわざわざ言うほどでもないようなときである。
これはお店だけではなく日常のあらゆる場面で遭遇することである。
さて、確かに店員の暴力の方が悪い。しかしである。お客さんは重体であり、もしかすると亡くなるかもしれない。確かに店員が悪いのである。でも死んでしまったらなんにもならない。つまり何が言いたいのかというと自分の身は自分で守るしかないので、こういった場合に正義感などから注意などをしたとしても逆切れし暴力をふるう人間がわずかながらいるということを想定して行動しなければ結局自分が損してしまうということである。
コメントを見たら店員に対しての気持ちはわからんでもないがこらえないとだめだ的な意見も多い。お客さんの中には理不尽なことを言ったりするお客さんもいるのも分かるがやはり暴力をふるう方が悪いというまっとうなコメントも多い。
暴力は振るう方が悪いし暴力はどんなことがあっても振るってはならないといういわば常識を前提に行動していると、まさか相手が暴力をふるうなんて想像していない人も多い。これまで一度も殴り合いの喧嘩さえしたことがない人も多いだろう。
こういう人は実は相手を不快な思いにさせていることを気づいていない人も多く、たまたまそういうトラブルに遭遇していないだけだったりする。その行動の前提にあるのは暴力はふるっちゃいけない=暴力をふるう人間なんか一部の輩だけだという日本的な考え方だろう。もちろん自分は暴力はふるわないのだろう。そして暴力をふるう方が悪いという。結果、理不尽なことをされても黙ってその場をやり過ごし、アイスでも買って落ち着けということになるのだろう。このような考えは多少の事しても暴力なんか振るわれることはないと逆に周りにたいして気を使わない行動になっているかもしれないのである。
あのあおり運転もそうである。実は被害者が煽っていたかもしれない。勿論暴力をふるう方が悪いのである。しかし、殴られてもし死んでしまったとしたら相手が悪いなどと言っている暇は文字通りないのである。
暴力をふるうほうが悪いというのは分かり切った話だが、暴力をふるう人間にいくらそんなこと言っても無駄というものだろう。そんな正論を吐いて暴力がなくなればこれほど幸せなことはない。
実は、暴力をふるってこないだろうという事を前提に言わば確信犯的に横柄な態度をとる人間もいるのである。
そんな人間は一度も怖い思いをしたことがないのかもしれない。




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