英語を話せて当たり前なのか?他人の意見を受け入れないのも多様性

   

あれだけ見ないようにしていたヤフーニュースがまた目にとまる。
大谷選手は英語を話すべきか、米スポーツ界で激論勃発
アメリカ人にとっては、いや欧米の人にとっては英語を話すというのはある意味当たり前みたいな感覚がどこかにあると思う。
もっとも英語が話せないヨーロッパ人も大勢いるが国際的な舞台で活動するには英語が話せて当たり前だと言う価値観の事である。
以前、中国の政府関係者が人権問題などに関して欧米から非難されていることに対して、「自分たちの価値観を押し付けるな」みたいなことを言ったが、あながち間違っていないのかもしれない。
そもそも欧米流の価値観が絶対的に正しいとは言えない。国際ルールなどというものは欧米のルールに等しい。
彼らの言う平等とは白人、もっと言えばキリスト教徒内での人権、平等であって、それ以外はあずかり知らぬことである。
彼らの価値観倫理観で言えばルールの範囲内であれば何やってもいいのだ。
差別は許されるものではないと声高に叫んでいるが、それは自分たちが優位に立っている場合の施しに過ぎない。
有色人種は彼らにとっては人間ではなく、別の生き物なのだ。別の生き物を人間と平等に扱う必要はない。
ペットは家族と同じというのはペットは家族ではないと言っているのと同じで人間として扱っているのではなくペットとして保護してやらなければいけないという価値観であり、有色人種は同じような立ち位置なのだ。

確かに、日本に来た海外のスター選手が日本語をしゃべらずに常に通訳をつけて過ごしているさまを見ると、日本にきたなら日本語くらい覚えろよと言いたくなる。
しかし、そんなことを日本のメディアで著名な人物が発言する事はまずない。
日本ではそのような発言をすることさえ許されない空気がある。
そもそも発言すらしないから議論になることさえない。そういう発言が物議を醸すのが分かっているから発言しないのだが、要は周りがそんなことを言っていないから、そういう事を言うと多くの人が批判するだろうから言わないというだけである。
一たびそのような発言をすれば自らがその批判の矛先にたってしまうかもしれない。そのようなリスクはあえてとらないのだ。
言わば同調圧力と変わらない。日本人は自己主張をしないと言われるのはこういうことである。
逆にみんなが言っている、みんなやっているからと周りをスケープゴートにし、それを他者に押し付けることが多い。
実はそれは自分の主張したいことを自分に責任が及ばないように他者の意見を利用して自己主張しているに過ぎない。日本人は自己主張しないわけではない。
責任をとりたくないだけなのだ。

結局似たり寄ったり。大して変わらない。むしろこのような外国人スターに対してはアメリカは日本より遅れているのかもしれない。




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