日本語は論理的であるかないかの議論から日本人の論理が見えてくる

   

いつの頃からか日本語は論理的でないとか、日本人は非論理的であるとか言われるようになった。
大人になって改めて英語を勉強するようになって英語は論理的だな、などと思った人も少なくはないはずだ。
私もその一人で、以前からこの事について色々と考えていた。
逆に日本語は論理的である、などというそのものずばりの題名の本まで出版されており、図書館から借りて少し読んでみて思ったことを備忘録として書いておこう。
まず、日本人ではなく、日本語に限って論理的かどうかが問題となっている。
言語が論理的かどうかということであるので、言語のロジックとして論理として整合性があるかどうかになるが、そうなると文法として日本語が成立しているので論理的と言えることになる。
言語はどれも文法があって成立しているからどの言語であっても論理的と言えばそうなってしまい、話はここで終わってしまう。
なぜ、日本語が論理的ではない、などと言われるかと言えばそういう観点の論理とは違う観点から言われているということが言える。
そもそも、初めに文法があって言葉ができたわけではなく、文法は後付けと言ってもいい。その後付けの文法に日本人の話している言葉を当てはめて考えているのだから言葉として論理的にとらえられる(この場合は意味として結論が間違っていても)のは言わば当たり前である。
日本語が英語に比べて論理的でないと感じるのは一定のロジックに従わなければ意味が通じなくなってしまう英語に比べて、日本語はロジックから逸脱しても文章として成立してしまう点にある。
ここで重要なのは文章として成立しているから意味が適切に伝達されるとは限らない点にある。要するに受け手によって違う捉えられ方をされかねない。
日本語は曖昧である、などというのはまさにこの点で前後の文章やその場の雰囲気、ジェスチャーなどにより補完されて初めて意味が適切に伝わる場合が少なくない。勿論この点は他の言語でも多かれ少なかれ似たようなものだが、英語の場合ロジックから逸脱すると文そのものが成立しないので意味不明に陥りやすい。もっともこの場合でも前述のように補完してコミュニケーションが成立する場合もある。
しかし、言語としての論理を考えた時、重要なのは文章表現として成立するかしないかであり、そこが言語として論理的かどうかという感覚につながっていくのだろう。
日本語の場合は文章として深く追求すればおかしいと直感で感じても、話し言葉ではまったく違和感なく通じたりする。否、もっと言えば正確な文法通りに話すことのほうが少なく、文法通りに話していたら逆に違和感さえ持つに違いない。
例えば、スマホの写真を見せられて
「これ、好き?」に対して
「好きだよ」と答えたとする。
明らかにスマホに映し出されている画像を好きかどうか聞いているので対象物を間違えようがない。多分このあたりは英語でも似たり寄ったりだろう(私はネイティブではないのではっきりしたことは言えないが)
これに対しての返答として「好きだよ」なので日本人の普通の会話であり、何の問題もない。
これを仮に文法通りに私はこの画像が好きだ、などと言う日本人はまずいないだろう(もしそんなことを言う日本人がいたらアンドロイドかもしれない)。
英語的に言えば I like it だろうか(私はネイティブではない)。
この点、よく言われるのは日本語には主語がない=論理的ではないとか、逆に主語がなくても意味が通じるから論理的であるなどと言われたりもする。
思うに、主語がないから論理的ではないわけではなく、主語がなくても成立してしまうから言語としては論理的ではないということだろう。
主語がなくても確かに意味は通じるから論理的であると言うと、まさにロジックとして考えたら意味は通じるので論理的であると言えるが、だからと言って言語そのものが論理的であるとは必ずしも言えない。なぜなら、言葉だけで判断されているわけではなく他の補完情報によって意味が判断されているからである。

そもそも論理的かどうか?と言えばほとんどの人が話の筋道が通っているかどうかをイメージするに違いない。
そうだとすると、日本語が文章としてスジがとおっているかどうかを考える時には1個の文章だけではなくいくつかの文章の関係性で判断するだろう。
論理命題で言うところの三段論法などをイメージすると分かりやすいが、そうなると1個1個の日本語の文をその三段論法に入れ込んで判断するわけで、それは要するに三段論法というロジックに日本語を入れ込んでいるだけであり、日本語が論理的かどうかではなく文章の関係性において論理的かどうかを考えているだけになってしまう。
この点について三段論法で考えることができるから日本語が論理的であるというのはまさに詭弁と言っていい。しかし、それに気付かずに主張している人が多いのも事実である。
論理的かそうではないか、というのはまさにこの点にある。
自分の主張に理屈を合わせるのはまさに詭弁であって論理ではない。論理とは客観的に判断されなければならない。
そうだとすると、日本語のように受け手によって違う捉え方ができてしまうような言語は論理的にものを考えるときに相対的に使いにくいと言わざるを得ない。
つまり、この点から日本語は論理的ではない、という意見が多くなるのだろう。
結局何をもって論理的と言っているのか?論理的とはそもそもなんなのか?その定義が曖昧なままで議論をすすめても立場によって結論が異なるだけだろう。
定義が曖昧なままではそれこそ論理的な議論などできようはずもない。

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