本当の事よりも信じたい事だけを人間は信じようとする

   

なるほど。そうだったのか。
ところでこの本は何だろうか。
どうやらこの本のようです。

なんだか聞いたことのある著者名。
レビューを見てみましょう。勿論低い評価からですよ(笑)
バイアスがかからないようにまず評価全体を概観。

全体で3.9とはなかなかとれるものではありませんね。高評価の本と言えましょう。
星一つにこんなレビューがある。

本書137~9ページに各国の平均知能指数の表をわざわざ載せていることから、人種の知能差はこの本のメーンテーマの一つであろう。データの原典は英国の心理学者リチャード・リン氏によるものだが、原著書を読めばわかるがリンはレーブンテスト・キャテルテスト・人物画テスト・認知症テスト・国際学力テストなど様々なデータから、10年に3ポイント上昇するという「フリン効果」を各国に一律適用したうえで、英国平均を100として計算したものである。リンも橘もこれらの差が遺伝によるものと決めつけているが証明はない。まず橘は遺伝率の言葉をこの本でも盛んに使っているが、なぜか読者向けには説明しない。遺伝率とは、ある環境にいる集団に観察される変異の分散の、何割かが遺伝によるものかを表す指標である。日本の普通の公立小学校の学童の知能や学力の遺伝率が70%というのは、この意味である。従って遺伝率は、具体的な個々の人間について、たとえばある一人の子が努力によって知能や学力の伸びるかどうかについて、何ほどかの情報を与えてくれるものではない。また遺伝率は全体として異なる環境にある二つの集団について平均値に差があったとして、その平均差が遺伝によるものか環境によるものかも、何ら情報を与えない。したがって各国の知能指数の差も、それが生得的なものかどうかは全く分からないのである。知能テストが主としてホワイトカラーになるために必要な能力を測っていると考えられる点からして、諸国の知能差は、単に教育格差、あるいはホワイトカラーの仕事の多寡を物語っているにすぎない可能性が多分にある。~~

他の低い評価を総合的にみると、
第三者の様々な知見を切り貼りして著者の都合の良い結論を導き出している、と言ったところだろうか。
勿論これは星3以下の評価ではあるものの、結論、或いは著者の意見が正しいかどうかは別として本の体裁としてこのような作りになっているのは間違いない。
つまり、科学的なエビデンスというものをある特定の見方、捉え方でしか判断していないので鵜呑みにしてしまうのは危険なようだ。

この本の前作も評価が高いようなのでレビューを見てみよう。

800以上の評価がつくなんてなかなかお目にかかれるものではない。

星1つのレビューに興味深いものがあったので引用。

意図的なのかどうか、断定はできないが、タブーに切り込むにはあまりにも論理展開が甘い。
そもそも、遺伝について述べるのならば、その形質が遺伝由来なのか、環境由来なのか、分けて考える必要がある。
冒頭の「思考実験」からして、首をかしげたくなる。

全文引用する。

>>>>>>
遺伝についての次の文を読んで、どう感じるだろうか。
① やせた親からはやせた子どもが生まれる
② 太った親からは太った子どもが生まれる

いずれも体型が遺伝的なものだと述べているが(引用者脚注※1)
①にていこうがなくても②にはひっかかりを覚えるひともいるだろう。
このことは、次の例だとよりはっきりする。

③親が陽気ならこどもも明るい性格に育つ
④親が陰鬱だとこどもも暗い性格に育つ。

どちらも性格と遺伝について述べているが(※2)、③と④では印象がまるで違うはずだ。
だがこれは、「性格は遺伝する」ということを異なる例で説明しているだけだ。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>引用終わり

①②では、述語が「生まれる」であり、遺伝寄りの表現になっているが、
③④では、述語が「育つ」であり、環境を含めた表現にすり替えられている。
※1にはまだ納得感があるが、※2は違う。
このような雑な論理展開で、「思考実験」と笑止であり、なんの価値もない。

ある形質が、遺伝由来なのか、環境由来なのかを考えるのには、「一卵性双生児」が適していることは、周知の事実と思う。
このことは、なんの前提もなく、「遺伝率」という言葉を使い始めた箇所で、触れられているので、
作者が知らぬはずはない。

そして、「統合失調症の遺伝率は80%」「双極性障害の遺伝率は83%」であることを述べ、「背の高い親から長身の子どもが生まれるよりずっと高い確率で、親が失調症なら子どもも同じ病気を発症するのだ」と言い切る。

呆れてものも言えない。アホですか? 「遺伝子を持っている」ということと「発症」は全く別のことです。

遺伝子が発現するかどうかは、環境による。病気の遺伝子を持っているからそれが発現するとは限らないし、発現したからといって発症するとは限らない。
筆者が文中で使う「遺伝率」とは、おそらくDNA配列レベルでの一致率、または特定遺伝子配列の出現確率を述べているのか(?)と思うが、
遺伝率がそのまま平行して発現率、発症率と同じようにになるとは限らない。
発現、発症のプロセスで、ねじれることは容易にありうる。
身長を決める遺伝子と統合失調症を決める遺伝子と、その発現、身体に現れるに至るプロセスはもっと複雑で、単純に比較できない。
このあたりは、生物学の基礎的な知識があればわかることだ。

最初の数ページを読んだだけで、この作者がいかに浅薄な知識で、データを解釈し、雑な思考実験(?)によって、
ゴミのような文章を書き連ねているのかがわかる。

¥100で、売れているから、というので読んでみたが、まったく価値はない。

このような本により、多くの人びとの認識が歪められ、偏見が助長されるのだとすれば、
これほど嘆かわしい話はない。
たとえば、企業の人事担当者がこの本を真に受けて、有能で可能性に満ち溢れた若者を差別すようなことは、断じてあってはならない。

データを解釈するのは結構だが、遺伝について本を書いて売るのならば、Essential細胞生物学くらいは読んで理解していただきたい。
または、「カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書」でも十分でしょう。
その 第1巻 細胞生物学 (ブルーバックス)がおすすめ。
これくらいは、大学の基礎教育として、文系理系問わず履修必須にしてもらいたい。

編集者のレベルの低さにも、愕然としました。

ちなみにこのレビューに対して、現時点で400人以上の人が役に立ったとしています。

さらに1000人以上が役に立ったとするレビューにこんなものがありました。

橘玲の本は、日々、その中身が劣化している。そんな気がしてならない。本人曰く、「本書は読んで不愉快な本」なんだそうだ。読んでみたが、別にそんなに不愉快な内容ではなかった。ただ気になるのが、橘玲の一貫した人生に向き合う姿勢についてだ。

橘の人生に向き合う姿勢を要約すると、こうだ。「人生は勉強である」「僕は勉強家である。沢山、本を読んでいる」「本の中には真理がある。それはとりわけ海の向こうの研究者が著した研究書の中に沢山書いてある」「だから僕は沢山の本を読み、良質の知識を身につけ、人生の黄金の羽根を拾うことに成功した」「このノウハウを君たちにも分け与えてあげるから、せいぜい僕の本を読んで勉強したまえ」

まあ、こんな感じだ。しかし、この手の「出羽の神(アメリカでは、欧米ではを連発するアレ)が資産運用や株式投資に留まっているうちは、まだ良かった。「へえー」「そうなんだ」で、済んだ。一部の出羽の神が神とあがめるマイロン・ショールズらが神のごとき知性を駆使して資産運用するLTCMが資産運用に失敗して破たんしても、だからと言って橘玲が炎上することはなかった。しかし、子育てや男女関係にまでやすやすと踏み込むようだと、そうはいかなくなる。橘は本書で、アメリカ等で出版された様々な子育て論、人間論、脳科学を「あたかもそれが真理であるかのような議論」として引用し、文章を構成している。ここに、そもそもの間違いがあることに橘は気が付いていない。「それが正しいと証明されたわけではないが、こういう理論を唱える人もある」程度なら良いのだが、「親の子育てと子供の成長は無関係」などと言い切る橘の文章を読んでいると「おいおい、待てよ、玲ちゃん」といいたくなる。

おそらく橘玲は「結婚していない(離婚を含む)」、「子供を持っていない」、「子育てをしたことがない」のだろう。子育てをして思うことは、「人間の不可思議さ、奥深さ」と人間の知識の限界である。幾ら子育て論を読んだところで、子育てにはほとんど役には立たない。それは「恋愛論」「恋愛の手引き」を幾ら読んだところで、あいかわらず「モテない奴はモテない」ことに変わりは無く、むしろ恋愛論を読めば読むほど「ますますモテなくなる」と喝破した楠木建が書いた通りである。俗に「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という。子育ては、まだ人間が解き明かしていない脳のメカニズムによって支配された人間と向き合う作業であり、本に書いてないこと、知らないことだらけで、むしろ本を読むことが邪魔になるケースが頻発するゲームなのある。「本に書いてある通りにした」ところ、およそ「期待とは正反対の方向に子供が向かい、悲嘆し後悔して、やがて何もしなくなると、逆に子供が最終的に親の期待通りの行動に出る」ということが良くあるのが子育てだ。だから子育てに求められるのは「不可知を前にした畏れ」であり「謙虚さ」で、それでも「かけがえのない子供を立派に育てるべく全力を尽くす真剣さ、情熱、愛情」なのであって、こうしたアメリカの半可通教授たちが繰り返す中途半端な実験や仮説などを真に受けても「百害あって一利なし」なのである。

いま橘玲に求められるのは「実際に結婚し、子育てしてみること」であり、そこから浮かんでくる「橘玲のこれまでの人生=畳の上の水練」は実際の川や海での水練にはほとんど全く役に立たないという冷厳なる事実に真摯に向き合う謙虚さであると考える。もはや橘玲が繰り出す本から学ぶことはほとんど無くなったことを悟りつつある。このあたりが、彼の限界なのだと思わずにはいられない。
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思うに、他のレビューにもあったがこの著者は本気で本に書いているような事を妄信しているわけではなく、このような書き方をすれば本は売れる、大衆に受けるということを看破してやっているのではなかろうか。
黒人のIQが低い、などとSNSでのたまえば炎上必至であろうが、炎上するということは少なくとも世の中の耳目を集めるという事には成功している。
また、自分がこう考えている、という表現は使わずに海外のこれこれこういう学者さんによれば、と、自分の言いたいことを他人に言わせることにより巧妙に責任転嫁するので直截的に炎上することはない。
キャッチーな表題、テーマで読者の興味をそそる。
専門家であれば一見して論理的整合性がとれていないと分かるような事でも専門家でもない大衆にはその真偽は分からないが、海外の学者がこれこれこういう事を言っていると言われればなるほどな、と思わざるを得ない。
わざわざ、事の真偽を調べたりする人がどれほどいようか。
仮に黒人のIQは実は低くないなど、本当の事を書いたとしても、そりゃそうだろうね、となるだけで特に注目を集めることはないだろう。

他人のアラ探しがやめられない人が多い理由についてもなんだか随分と納得した自分がいましたが、よくよく考えてみるとちょっとおかしい事に気付きます。
原文の前後を読んでいないのでなんとも言えませんが、不道徳な事に対して怒りを感じ懲罰するようにあらかじめ本能に組み込んでおくと言いますが、そもそも不道徳とはなんなのか?旧石器時代に道徳という概念があったのか?という素朴な疑問がわきます。
正義は最大の娯楽、というのもすごく腑に落ちるキラーワードですね。
つまり正義を行うと快楽物質が脳内に分泌される。だから人間は正義を行おうとする。
ところで、そんなに正義を行おうとする人間社会からなぜその道徳とやらに反する事を行う人間がなくならないのか?
犯罪や戦争もなくなりはしませんよね。戦争なんかは各当事者に正義があるのでなくならないのも分かりますが。
こうなってくると各人によって道徳や正義というやつは定義が違うのだという事が分かります。
社会を守るために本能に組み込まれた正義を行うと快楽物質が出るというそのシステムが各個人によって違う正義であればそれは結局意味をなさなくなるのではないか?というところに行きつきます。
道徳やら正義というものは結局その共同体で一定の共通の価値観によらなければ意味がなく、当該説からはその共通の価値観というものが本能に組み込まれているということになり、そうなると各人によってその道徳や正義は基本的に共通しているということになります。
民族や、国家が違えばその共通の価値観は相対的に異なってきてもおかしくはありませんがある一定の共同体では共通していなければならない。まあその共同体というのもなんだかあやふやなものですが。
いずれにしろ、そうなると世の中の道徳観や正義などから逸脱するような人はほぼほぼいないはずですが、そうではありません。勿論相対的にみて犯罪者は少ないので見方によってはほとんどいないとする見方もできるかもしれませんし、どんな社会や制度であっても一定数はルール違反や事故的なものが発生するものだとすればその事で当該説が間違いだとすることもできません。

ということで私も今、脳内快楽物質がダダ漏れ状態かもしれません(笑)




 - 素朴な疑問