一体誰が英雄か?事実かプロバガンダかFukushima 50を見て悩む

   


テレビでやっていたので見ましたが、なかなか感動的な作品に仕上がっていました。
が、これはどこからどこまで事実なのか?やはり気になるところですよね。映画は映画として観ればいいですが、現場の職員さんたちを英雄にするというコンセプトであったとしても解せない点がいくつかあるのでちょっと調べてみるだけで色々見えてきますね。
まず解せないのは
そもそも最終的に2号機だか3号機だかが爆発せずに東日本が壊滅せずにすんだのは偶然でしかない
国家的、いや世界的大惨事になるかもしれない事態なのに民間人がコントロールするしかない
地上波初放送 映画『Fukushima50』の事実歪曲とミスリード 地上波初放送 映画『Fukushima50』の事実歪曲とミスリード 門田隆将の原作よりひどい事故責任スリカエ、東電批判の甘さの理由
確かに当時の政権は徹底的に悪者に描かれていますが、どうやら事実ではないことも含まれているようですね。
現場の人たちを英雄にするというのが映画のコンセプトだと思うのですが、やはり事実ではないことを描くのはよくないでしょう。
単なる立場によって見方が異なるという類のものではありません。
映画の中で首相が東電に乗り込んで撤退などあり得ないと激高して言い放つシーンがあります。私はここでよく言った、と思いましたが、映画では東電の社員が、「何言ってんだこいつ、撤退とかするわけない」みたいに言います。
東電の本店は撤退もやむなしみたいな雰囲気だったので現場の社員の声だと思いますが、この声を入れるだけで映画としては首相のこの発言を批判的に捉えていると、見ている人は知らず知らずのうちに感じますよね。
民間人が命がけで国を守ろうとしている、というふうに見るととても感動的なんですが、よくよく考えてみると変な話なわけです。
国レベルの大惨事なのにいち民間企業が対応せざるを得ない。つまり原子力規制委員会だとかたいそうな名前のついた機関がいくつもあるのに事故が起こった時の体制ができていないわけです。
原発が設置許可されるためのロジックとして面白い話があります。
原発をつくるためには当然事故が起きないようにしなければならない。そうすると、仮に事故が起きた場合の想定をすると設置許可が下りない。
だから事故は起きないという前提でつくると。
事故がおきるようなもんはつくらせないから当然できあがっているものは事故が起きない。事故が起きないから事故が起きた時の想定なんかもってのほかである。
映画の冒頭で、電源が喪失したので電源車を持ってくる場面があります、がなんと電圧が違って使い物にならないとかいう笑うに笑えない話があります。
どんなに緻密に事故を起こさないような設計をしても人間のちょっとしたミスで木っ端みじんです。
しかも半径250キロとかなったらどうでしょうか。
でも、今はどうでしょうか?みなさんのど元過ぎればなんとやらが大半でしょう。
あくまでこの映画は現場の社員さんたちを英雄にしたいという事なのでしょうが、もしかすると防げたかもしれない事故で命を危険にさらされたと考えると、そんなに安易に美談にしてもいいものでしょうか。




 - 動画とか , ,