性懲りもなく日本人は論理的か問題

   

論理的にものを考えているつもりで独りよがりの独善的偏見でものをみている弱小ブロガーです。
日本語の難しさから日本人は論理的でないという意見があることを知り、最近妙に納得しているわけですが、やはり日本語がかなり足かせとなっているような気がしています。
論理の問題に「太陽が西へ沈む」という命題?からの三段論法があって、簡単なようで実は結構議論があるのが興味深いです。
これは演繹なのか帰納なのか問題と言い換えていいと思いますが
演繹を説明するときに、「毎日太陽は東から昇り、西に沈む」という

「毎日太陽は東から昇り、西に沈む」というところから、今日もまた明日もそうだ、と結論することが演繹的推理だという説明があったのですが、昨日も今日も経験的に太陽が
西に沈んだので明日も沈むだろうと結論付けるのは、帰納的推論ではないのでしょうか。

そもそも演繹的推論と帰納的推論とはなにか?

演繹的推論は端的に言えばある前提から必然的に導き出される結果。
帰納的推論はいくつかの個々事象から普遍的なもの一般的なものを導き出す。
毎日という枕詞がついているかいないかで演繹か帰納か分かれてしまう。一方「毎日太陽は・・」を一つの前提として捉える事も可能である。
仮に1回しか起こらなかった事実をもとにして帰納的推論ができるのかどうかは知らないが、1回だけだと説得力に欠けるしだれも納得しないだろう。

さらに、「太陽が西から昇って東に沈む」問題がある。
https://www.amazon.co.jp/dp/4587037559

前提が間違っている文章の例示ではないかという気がしなくもないが、著者が勘違いしているのか、単なる誤植なのか謎である部分がある。
「毎日太陽は西から昇っている。
ゆえに、太陽は西から昇る。
これは疑念をさしはさむ余地のない推論のように見える。しかし、やはり帰納的推論であり、飛躍がある。今までずっと太陽が西から昇っているからといって、今後ずっと西から昇るとはいえない。」(P101)
太陽が西から昇るのは、バカボンの歌である。

これを帰納的にみると明らかに誤りなのだが、演繹的にみると別の景色が見えてくる。
ものの本によれば演繹では命題の真偽を問わないと書いてある。
つまり、演繹では前提をその前提として(正しいとして考える)結論をだすからであるが、解説にあるようにこれは帰納的推論で間違いだといっている。
しかし、突き詰めて考えるとこれが帰納的だとするとそもそもあり得ない経験則を得ているわけで、となると帰納的推論が間違っているというよりはそもそも前提、条件、言い方は知らないがもとの帰納的なものが間違っているので話にならない。推論としての論理が間違っているという話ではないのでこのような説明をあえて付け加えることに何らかの意図があると思われるがかなり混乱する事必至である。
それに、帰納的推論だと結論付けた根拠はなんであろうか?実験ではこのような結果はでてこないはずで、現実にありえないということを前提にして判断しているとしたらそれはそれで問題がありそうである。
仮に、まかり間違って太陽が西から昇っている実験結果が得られたとしたら、それで推論をたてるしかなく、そうすると論理としてはそれで判断されなければならない。
ここに現実にはあり得ないという現在の一般常識的な経験則を当てはめて判断するなら、もはや論理の問題ではなくなっていると言えるだろう。
帰納的に判断するということが自分の経験則までも元にして判断されているというわけだ。
しかし、解説文では「今までずっと太陽が西から昇っているからといって、今後ずっと西から昇るとはいえない」ことが帰納的推論の理由になっているようにもみえる。要するに論理必然の関係にないと言っているわけだ、仮に太陽が西からのぼったとしても。論理必然の関係になければそれは帰納的推論ということか?確かに帰納的推論は必ずしも結論が真にはならないし、それでいい。
そう考えると、演繹はある前提から必ずある結論が導き出されることを言い、帰納的推論とは要するにこれこれの事象からこういう結論が導き出されるだろう、というぐらいのものである。これをさらにつきつめると世の中の科学的事象であってもそれは要するに帰納的推論と言えることになる。これまでの常識からすれば、今後もよほどの事がない限りそうなり続けるだろうという話である。
となれば、演繹とはむしろ、ある意味人為的、バーチャルな設定といっていいものかもしれない。そう考えたほうがしっくりくる。
このように考えたらこうなるね、ぐらいのもんである。ただ、そこに反論の余地はない、ぐうの音も出ない理屈である。
まるで江藤新平が吐くようなたくましい理屈に違いない。

太陽の問題は誰にでもわかりやすいからまだいいのかもしれない。これが専門家なら常識として知られているものの、一般人にはほとんどしらないようなウィルスの動きなどが命題であったら果たしてどうだろうか?これは帰納的だね、などと論理学の学者であっても即答できないのではないか?
演繹とか帰納などの推論手法を厳密に区別しているということはそれだけ明確な違いがあるのだろうが、本当にわかりにくい。頭が悪いだけなのか勉強が足りないだけなのか。もっと深く勉強してみたいものの、
かといって哲学から論理学を勉強する気なんかさらさらないし。
私はベーコンにはなれない。




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